ジジェクを中心とした神的暴力論を巡る議論について
久々に投稿します。最近ジジェクは剽窃騒動でてんやわんやですね。ジジェクの主張が真実ならばそこまで大した問題でもないとは思いますが…
まあ、それは置いといて。今回は、ジジェク『暴力 ―6つの斜めからの省察―』の最終章に当たる「軽快に(アレグロ)―神的暴力」についての要旨、解説
、補足及び展開についてレジュメを作ったのでアップしたいと思います。今回は邦訳とは何の関係もないです、すみません。しかも多分本書自体を通読していない方には非常に分かりにくい仕様になっております。これをたたき台にして卒論にまで紹介しようと思ってはいますが、何せまだ初期段階です。これから適宜修正いたしますので。
暴力からみる政治的存在論―神の所在を巡って―
<要旨・解説・補足>
●ジジェク自身の神的暴力における解釈の亀裂
- [ベンヤミンの歴史の天使を引いて…]神的暴力とは、この天使の野蛮な介入であるとしたらどうか。…人間の歴史全体は、名もなき民衆の苦しみを生み出す不正を正す過程としてみることができるのではないか。こうした不正はおそらく、どこかで、「神的な」領域において、記憶されている。
- …そうした正義の暴力的な執行に対立するのは、不正としての神的暴力、突発的な神の気まぐれとしての神的暴力である。…ヨブが偉大なのは、彼が身の潔白を証明したからではなく、むしろ、この不幸には意味がないと主張したからである。(本書p.219~220)
●象徴化それ自体の暴力と象徴化不可能なものとしての神的暴力(p.220~226)
●スローターダイクのルサンチマン批判と、「ニーチェ的な」反ニーチェ的ルサンチマン
メシアニズム的な<最後の審判>を熱望しても、我々は常に憤怒を不足させており、ナショナルな憤怒、貧農の憤怒等を借り入れなければならない。
こうしたローカルな憤怒の爆発[反グローバリズム、エコロジスト、反資本主義、etc…]は、フクヤマを批判するものが「歴史の回帰」としてありがたがるものだが、それは貧しい代用品に過ぎない。グローバルな憤怒にはもはや可能性がないという事実は、それでは到底、覆い隠せない。(本書p.229)
→上述への代替案は、スローターダイクに拠れば、ニーチェ的な反ルサンチマンを以て憤怒を超克することである。(p.230)
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支配的な実存範疇としての怨恨は、私の怨恨について言えば、個人の歴史的な長い進展の結果である。[……]私の怨恨は、罪人にとって罪を道徳的な現実にするために、彼に自分の悪行の真実を突きつけるために、実存する。[……]わが身に起こったことについての省察にささげられた二十年をとおして、私は、社会的圧力によって引き起こされる免罪と忘却が不道徳なものであることを理解したと思う。[……]実際、自然な時間間隔は傷口が癒着する生理学的過程に根差しており、現実についての社会的表象に関与するに至っている。まさにこの理由により、その感覚の性質は道徳外のものであるだけでなく反道徳的である。あらゆる自然的な事象にたいして同意を表明しないこと、ひいては時間によって引き起こされる生物学的癒着にたいしても同意を表明しないことは、人間の権利であり特権である。起こってしまったことは起こってしまったことだ。この文句は真理であるとともに、道徳と精神に反している。[……]道徳的人間は時間の停止を要求する。わたしたちの場合、それは罪人をその悪行の前にくぎ付けにすることである。このようにして、時間の道徳的な逆行が起こってはじめて、罪人は自分に似た者としての犠牲者に近づくことができる。
(ジャン・アメリー『罪と罰の彼岸―ある敗北者の生産の試み』、p122~124)
しかしながら、アウシュヴィッツに直面して二十世紀の倫理がこのように挫折するのは、そこで起こったことが残酷すぎて、誰も繰り返すことを欲することが出来ず、それを運命として愛することができないからではない。ニーチェの実験においては、恐怖ははじめから計算に入れられており、悪魔の聞き手におよぼすその実験の最初の効果はまさに「こう語りかけた悪魔に対して歯を向いて呪う」よう聞き手を仕向けるというものである。
(ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』、p.133)
●「慈悲深さ」について
・厳格なユダヤ的正義(同害報復)とキリスト教的慈悲(罪人にうけるにあたいしない赦しを与える)に関する逆説性(p.232~233)
⇒「ゆるし、忘れない」ことのキリスト教的な超自我(≒カルヴィニズムの予定説)
*『ドッグヴィル』のラストシーンは神的暴力であるか
住民を「新たな光」のもとで見ること(象徴界から現実界への移行、観念化から現実化)
⇒慈悲を与える主体(=神)として表象=代理representationすることの傲慢・特権から「純粋暴力」へ
*But.<父親>への回帰は、神的暴力の刹那性を意味するのではないか(デリダとの見解の一致?)
→デリダは、瞬間に現れる神的な暴力の純粋性に疑問符を突きつける。
最後の数行の中でベンヤミンは、署名を為す直前に、「雑種的」という言葉までも使っている。それが結局は神話の定義であり、したがって法/権利を基礎づける暴力の定義である。神話的な法/権利、すなわちこう言ってよければ法的な虚構、それは、「純粋な暴力のとる永遠不滅の諸形態」を「荒廃させる/雑種化する」(bastardierte[=bastardize])ことになる。神話は、神的な暴力を法/権利と(mit dem Recht)交配させている。身分不相応の結婚、不純な系譜。即ちそれは血を混ぜ合わせることではなく、雑種にすることである。実はこの雑種性が、血を流させたり血によって償わせたりするような法/権利を創造することになる。(ジャック・デリダ『法の力』、p.173)
●ジジェクの倫理・道徳論的転回
ニーチェやプロト-タイプなフロイディアンに見られる「懐疑の解釈学」の拒絶(p.237,ℓ2)
・行為の裏に隠された「感性的動因」へと原因を還元するのではなく…、むしろ「欲望に従うこと」と「義務を遂行すること」の一致(p.238,ℓ3)
⇒「自由に<享楽>せよ」という超自我の命令
感性的動因に還元すること―脱主体性において原因を説明するというギリシア的モデル(アンティゴネ―、オイディプス)―の破綻(アウシュビッツの例)
●「…最後に、これぞ神的暴力というものへ」
・神的暴力のアクチュアリティ
ジジェク:フランス革命、及びロシア革命の後に続いた恐怖政治はいずれも神的暴力である(p.239~240)
・[「暴力批判論」の一節を引いて…]したがって、逆説的ではあるが、神的暴力は、生政治に拠るホモ・サケルの扱い方と部分的に重なり合う。どちらの場合も、殺すことは、罪にも生贄の儀式にもならないのである。(本書、p.241,ℓ13)
*ここで、ジジェクは「殺害可能、犠牲化不可能」というホモ・サケルの定式を援用するが、明白にこれは神的暴力と主権的暴力(法措定的暴力)の誤認である
└かつての大革命で殺害された者も、ホモ・サケルも、定式上は一致する(殺害可能、犠牲化不可能)ものの、前者は既存の法が脱措定されたことによる殺害可能化であり、後者は法からの包摂的排除によって例外状態に置かれることによる殺害可能化である(すなわち、法と法措定の主体である主権権力なしにはホモ・サケルは存立しえない)
・前述の倫理的転回について
自身の主体性を引き受け、「戒律」を受け入れるか拒否するかの決断ないし「賭け」に自らを投企することの倫理的至高性(実存主義への接近)(p.243,ℓ13)
⇒また、この倫理は、<大文字の他者>の失墜という今日的課題を乗り越えるための倫理であると解釈可能
・その直前において、神的暴力について何らかの意味付与を行うことに抗するよう仕向ける一方で、主体が孤独の状況において決断を担うよう要請する(p.243,ℓ8)
ここにおいて、当初ジジェク自らが示唆していた神的暴力解釈についての亀裂の意味が明らかとなる(AとBの架橋)
*ジジェク的暴力論においては、客観的な意味付与を不可能とする暴力を、主体が<大文字の他者>を拠所とすることなく、孤独の中で決定を引き受けてさえいれば、倫理的に正当であるのか?
⇒「愛」こそすべて=最終審級である(p.247~249)
「残虐性なき愛は無力であり、愛なき残虐性は盲目である」(本書,p248,ℓ4)
⇒「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である」のパラフレーズ
<展開>
彼らはともに主体においての倫理的な「賭け」の場が存在すると主張
それはつまり、ある封印の解読不可能性、すなわちほかならぬ思考の署名を打ち破って開封してみせる―ただし、解読不可能性を解読不可能なものとして、そして解読不可能性には手を触れずにそのままにしておきながら、打ち破って開封してみせる―力を授かるものにとって、ということである。(ジャック・デリダ『法の力』、p.177,ℓ2)
また、彼は『法の力』のあとがきで、あの「神話と神的暴力の交配的形態」をナチスの「最終解決」に近づけて考える
すなわちそれは結局のところ、このテクストによって口をあけられたままになるであろう一つの誘惑である。…それは、ホロコーストを、神的な暴力の解釈不可能な権限として考えたいという誘惑である。…ホロコーストを、罪を清める作用としたり、正義にかなう暴力的な神の怒りの読み解くことの出来ない一つの署名としたりするような解釈の着想にわれわれは恐怖で震え上がる。(ibid、p.193~194)
アガンベンは上記のようなデリダの読みを「綿密な読みであり、奇妙な曲解」であるとしている
⇒アガンベンにとって、この最終解決が位置する場というのは、神的暴力が位置する<法外>の場ではなく法の外と内の不分明地帯に位置する例外状態であり、そこでは法=暴力は脱措定されるのではなく、「宙づり」にされる。
確かなのは、神的な暴力が、法権利を措定も保存もせず、脱措定する、ということだけである。ここから、神的な暴力が危険きわまりない誤解に役立ってしまうということにもなる。(このことはデリダの綿密な読みが証している。デリダはこの試論の解釈において奇妙な曲解を行い、この神的な暴力をナチの「最終解決」に近づけて警戒している)。(ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』、p.96)
例外状態において行使される暴力は、法権利を保存するのでも法権利を単に措定するのでもなく、法権利を宙吊りにすることで保存し、法権利から自らを例外化することによって法権利を措定する。…というのも、主権的暴力は法と自然、外部と内部、暴力と法権利のあいだに不分明地帯を開くからだ。だが、主権者とはまさしく、これらを混同する限りにおいてこれらを決定する可能性を保持するものである。(ibid、p.96)
「暴力批判論」の戦略が純粋でアノミー的な暴力の存在を確証することに向けられていたのに対して、シュミットの場合には、逆にそのような暴力を法的コンテクストのうちに引き戻すことが問題となる。(ジョルジョ・アガンベン『例外状態』、p.109)
*結局のところ、デリダの示していた恐怖の対象としての神的暴力は、実際は主権的暴力ではないか。そしてそれと同時に、デリダの誤読は正当な誤読ではないだろうか?
・アガンベンはハイデガーとナチスの政治的存在論を、根源的に異なるものとして擁護する
ナチズムは、生物学や優生学の用語で規定されたホモ・サケルの剥き出しの生を、価値と無価値に関する不断の決定の場とする。…だが、ハイデガーにおいては、あらゆる行為において自らの生が問題となるホモ・サケルは「存在においてその存在自体が問題となる」現存在になる。…そこでは剥き出しの生のようなものを分離することはできない。例外状態が規則となったところでは、かつては主権権力の相対物だったホモ・サケルの生が、もはや権力の捉えることの出来ない一つの実存へと転倒する。(ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』、p.211)
しかしながら、これはハイデガーのナチズムへの(一時的にではあれ)傾倒を説明するどころか、むしろ謎を深めている。
∴したがって、問題は神的暴力と主権的暴力の同質性ではなく(実際さきほども示したように、両者の位置する場は異なる)、異種同形であることから来る識別不可能性にあるのではないか(ジジェクの例)
ハイデガーは「存在論的(オントロジカル)」暴力という概念を用いている。「存在論的」暴力は、一つの人民からなる新たな共同<世界>を創設する詩人、哲人、政治家の身振りにすべて固有なものとして備わっている。…もう一度ハイデガーに戻ろう。以上述べたことが意味しているのは、ヒトラーの暴力は、そのもっとも戦慄すべき時でさえ(何百万というユダヤ人の虐殺)、「存在的(オンティック)」に過ぎなかった、つまりそれもまた、真の意味で「ポリスの外に出る」ことができない無能さ、…無力なアクティング・アウト[行為への移行]だったのである。そして、ハイデガー自身のナチ関与もまたアクティング・アウトとして解釈できるとしたらどうだろう。ナチ関与が、自身の中に見出した理論的行き詰まり解決できないハイデガーの無能さを物語る暴力の噴出だとしたら。
(スラヴォイ・ジジェク『大義を忘れるな』、p.231~235)
・ハイデガーにおいても、神話的暴力と神的暴力の、「存在的」暴力と「存在論的」暴力の位相を誤認する結果となっている
・そして、ジジェクの暴力論においてすらも、神的暴力と神話的暴力の識別不可能性を解消する手立ては何ら保障されていない
<ひとまずの帰結>
真の神的暴力が破壊的ではない形で建言することが出来るのは、来るべき<成就>された世界においてしかない。これにたいして、神的暴力が現実世界に入り込んでくる場合には、そこには破壊がみなぎることになる。したがってこの世界においては、如何なる恒常的なものも、またいかなる形成も、神的暴力を根拠に据えることはできない。ましてや、神的暴力を根拠にして、支配をこの世界の最高原理として打ち立てることはできない。(ヴァルター・ベンヤミン「神と歴史」)
ここにおいて、われわれは神話的暴力の許容し難さについてだけではなく、神的暴力への近づき難さについて受忍せざるを得ない地点に辿り着いたように思われる。近づき難さというのは、識別不可能性であり、誤認のことでもある。そして別言すれば、神的暴力の雑種性ないし神話=<父>の法への抑圧と回帰の可能性である。これは、ジジェク自身が奇しくも述べていたように、幻想と<現実界>とのあいだでの間合いのはかり方という、また別の問題構成を要請する契機の場を生じさせるだろう。というのも、神話と神、存在と存在論、収容所と解放的革命、<象徴界>(ないし幻想)と<現実界>、前者と後者のあいだでの我々の布置されるべき場のことである。
<参考文献>
ジョルジョ・アガンベン著、高桑和己訳『ホモ・サケル』、以文社、2003年
〃、上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの』、月曜社、2001年
〃、上村忠男・中村勝己訳『例外状態』、未來社、2007年
ヴァルター・ベンヤミン著、山口祐之訳「暴力の批判的検討」『ベンヤミン・アンソロジー』、河出書房新社、2011年
ヴァルター・ベンヤミン著、道籏泰三訳「神と歴史」『来るべき哲学のプログラム』、晶文社、2011年
エファ・ゴイレン著、大澤俊朗訳『アガンベン入門』、岩波書店、2010年
スラヴォイ・ジジェク著、中山徹訳『暴力』、青土社、2010年
〃、中山徹・鈴木英明訳『大義を忘れるな』、青土社、2010年
〃、長原豊・松本潤一郎訳『ロベスピエール/毛沢東』、河出書房新社、2008年
ジャック・デリダ著、堅田研一訳『法の力』、法政大学出版局、1999年
木下聖三「純粋な暴力」『常民文化』第34号、2012年3月
上野成利著『暴力(思考のフロンティア)』、岩波書店、2006年
守中高明著『法(思考のフロンティア)』、岩波書店、2005年
仲正昌樹著『<法>と<法外>なもの』、お茶の水書房、2001年
高橋順一著『ヴァルター・ベンヤミン解読』、社会評論社、2010年