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まったりと現代思想を邦訳していくブログ~ジジェクを中心に~

本邦初のジジェク(哲学・現代思想・社会学)専門翻訳ブログです。 尚、誤訳、誤字脱字、あらゆる面で至らない点がありますが、特に誤訳の面ではコメント覧でのご指摘など頂ければと思います。時々持説なども語ったり。

スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して…

  前回のジョン・グレイによる批判に対してのジジェクからの応答を訳しました。後半、相当に怒りが込められた口調となっています。実際、一番初めに邦訳したジジェクに対するインタビューの記事にもあるように、彼はあまり他人からの批判に応答するタイプではないようです。ただ、今回に限っては度を越していた、見逃すことが出来ないレベルの批判だったのでしょう。

 

スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して

       (原文:http://www.lacan.com/thesymptom/?page_id=2230

 

 私がジョン・グレイの批判に対して嫌悪感のようなものを抱くとすれば、それは彼の書評が私の二つの近著に対して高度に批判的だからではない。そうではなく、彼の論難が、詳細まで答えようとすれば、単なる間違った言明について正すのは言うまでもなく、当てこすりや誤解に対しての応答など、作家にとっては退屈でしかない、私の立場についての非常に粗雑な誤読に基づいているからである。したがって、理論的棄却と道徳的な義憤を混同にしている典型的な例に話を限定しよう。つまり、反ユダヤ主義に関するものであり、それについては詳細に引用する必要がある。:

 

ジジェクは、ドイツが、ヒトラーの政権よりも反動的・権力的ではない政権によって統治されていた場合に生じるであろう生活形態の性質について、ほとんど言及していない。彼は、この新しい生活様式に関して、人間のアイデンティティにおける特定の形式が生じる余地などないことを明らかにしている。

ヒトラーの「我々は、我々の中にいるユダヤ人を根絶やしにせねばならない」という声明は、反ユダヤ主義の幻想的な地位を暴露した。ヒトラーの声明は、それが言いたかったこと以上のことを言っている。つまり、彼の意図に反して、ゲルマン人たちは彼ら自身のアイデンティティを維持するために、“ユダヤ人”という反ユダヤ主義の像を必要としていることを認めているのである。こうして、“ユダヤ人は我々の中にいる”だけでなく、致命的にもヒトラーが付け加えるのを忘れていたのは、同様に反ユダヤ主義者もユダヤ人の中にいるということである。この逆説的なひねりは、反ユダヤ主義の運命にとって何を意味するであろうか。

ジジェクは、「明確に反ユダヤ主義を批判する際に、疑惧の念が見られる」として、“急進左翼における特定の要素”を非難している。しかしながら、反ユダヤとユダヤの人々のアイデンティティは、ある種相互補完的であるという主張は―これは『Less Than Nothing』の中でたびたび繰り返される主張だが―理解し難い。反ユダヤ主義者がいなくなるただ一つの世界というのは、もはやユダヤ人が一人もいない世界のことである、という彼の示唆を除けば、であるが。

 

ここでは一体何が起きているのだろうか。右において引用された"Less Than Nothing"の文章の直ぐ後には、このような文面が続いている。:

 

 ここにおいて我々は再び、カントの先験哲学とヘーゲルとの差異性を浮きだたせることが出来る。両者がともに了解しているのは、もちろん、反ユダヤ主義的ユダヤ人像は具現化されることはなく(単純な言い方をすれば、“本物のユダヤ人”とは適応しない)、イデオロギー的幻想(“投影”)、それは“私の目に映っている”ということである。ヘーゲルが付言するには、ユダヤ人を幻想する主体はそれ自体“写像”であり、まさしく彼の実存は、彼のアイデンティティの一貫性を支える、“現実界の小さな欠片(little bit of the Real)”としてのユダヤ人という幻想に依拠しているのである。そのような反ユダヤ主義的な幻想を取り払えば、幻想を抱いていた主体自身が崩壊してしまう。重要なのは、自己が客観的現実において占める位置や、“私とは客観的に何であるか”という不可能な-現実(impossible-real)などではなく、私自身の幻想が、主体としての私の存在をどのように維持しているのかということだ。

 

 これらの議論は完璧に明確ではないだろうか?密接な相互の関わり合いとは、ナチスとユダヤ人のことではなく、ナチスと彼ら自身の反ユダヤ的な幻想のことである。だから、“反ユダヤ主義的な幻想を取り払えば、幻想を抱いていた主体自身が崩壊してしまう”のである。ユダヤ人と反ユダヤ主義者は相互依存的であるので、ナチスを排除するための唯一の方策はユダヤ人を抹消することである、ということではない。問題なのは、ナチスのアイデンティティは彼自身の反ユダヤ仕儀的な幻想に依拠しているということである。彼自身のアイデンティティは、ユダヤ人という幻想に根拠を置いているという意味において、ナチスは“ユダヤ人の中にいる”のである。したがって、どういうわけか私がユダヤ人の絶滅の必要性を暗示しているという、グレイのあてつけは、ばかばかしくて、奇怪な、非常な不快感を催すものである。詰る所、それは相手に20世紀における最も恐るべき犯罪への共感を帰着させることで論敵の信用を損なわせるという、卑しい目的に適ったものでしかない。

 

 よって、グレイが、「ジジェクは、ドイツが、ヒトラーの政権よりも反動的・権力的ではない政権によって統治されていた場合に生じるであろう生活形態の性質について、ほとんど言及していない。」と述べる際、彼は単に本当のところを伝えていない。私が指摘しているのは、そのような「生活形態」は、まさにユダヤ人のようなスケープゴートを探し出す必要がないだろうということである。「ヒトラーの政権よりも反動的・権力的ではない政権」は例えば、何百万のユダヤ人を虐殺するのではなく、社会的な生産諸関係を変容させ、その敵対的性質を喪失させるのである。これが、私の説く“暴力”であり、それは血が流されることのない暴力である。ヒトラーや、スターリンクメール・ルージュといった、徹底して破壊的な暴力こそ、私にとっては「反動的で・権力がない」のである。このような単純な意味においてこそ、私はガンジーをヒトラーよりも暴力的であると考える。

 

 直接的に植民地国家を攻撃するのではなく、ガンジーは、市民的不服従、イギリス製品のボイコット、植民地国家の範疇の外部での社会的空間の創造といった運動を組織した。このようなことから、狂っているように思われるかも知れないが、ガンジーはヒトラーよりも暴力的であったと言われるべきである。ヒトラーを、悪党で、何百万もの人々の死に責任があり、しかしそれにもかかわらず鉄の意志で目的を追求したタマのある男であった、と特徴づけるのは倫理的にぞっとさせられるだけでなく端的に誤りである。そうではなく、ヒトラーは真に変革するだけのタマがなかったのである。彼の行為のすべては、基本的に反動的行為である。彼は何事も本当に変化することの無いように行動した。かれは、共産主義の脅威という真の変革を妨げた。ユダヤ人をターゲットにするということは、イギリスの植民地国家の基礎的機能を効果的に中断させようとしたガンジーとは反対に、本当の敵―資本主義的社会関係の核それ自体。ヒトラーは資本制秩序が生き延びるために、革命劇を演じたのである―を回避する置換の行為であった。

 

 読者を何十もの同じような誤読の例で退屈させないように、グレイが自らの批評を現代資本主義と私の思想とのいわゆる“異種同形(isomorphism)”の関係についての言及で締めくくっていることについて述べさせていただきたい。

 

それ[ジジェクの思想]は同時に彼自身が資本主義の活動において感取している、強制的で無目的的な力動を再生産している。本質的に虚無なビジョンを終わることなく反復し、欺瞞に満ちた実体を勝ち取ることで、ジジェクの著作―矛盾許容論理の原則を見事に例証している―は、結局、無以下(less than nothing)なものに成り果てるのである。

 

 こうした皮相的な偽マルクス主義のような相同性(彼の数えきれない偏向した歪曲と併せて)で判明するどのような事柄も、今日の知的議論の水準の悲嘆すべき指標である。グレイの著述活動こそ、完全に我々のイデオロギー的後期資本主義の宇宙に適合している。あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。グレイの批評は無以下(less than nothing)でさえなく、単に無価値な無(worthless nothing)である。

 

 最近の"Less Than Nothing"の批評 (Guardian, Saturday 30 June)の中で、ジョナサン・レーは、道徳的なあてこすりにおける更なる深みに達した。

 

ジジェクは]貧困や不平等、戦争、金融、児童ケア、不寛容、犯罪、教育、食糧不足、ナショナリズム、医学、気候変動、商品・サービスの生産のことについては全く議論せずに、それでも尚、自身が我々の時代におけるもっとも差し迫った社会問題に取り組んでいると思っている。彼は哲学というおもちゃ兵士の遊戯をする一方で、喜んで世界を燃え盛るままに放置しておくのだ。 

 

  まさにこれらの問題へと捧げられた一連の著作を書いた人物について、どうしてこんなことが書けるのだろうか。ヘーゲル本である“Less Than Nothing”においてでさえ、締めくくりの部分では、社会政治学的問題についての包括的な議論が存在している。