まったりと現代思想を邦訳していくブログ~ジジェクを中心に~

本邦初のジジェク(哲学・現代思想・社会学)専門翻訳ブログです。 尚、誤訳、誤字脱字、あらゆる面で至らない点がありますが、特に誤訳の面ではコメント覧でのご指摘など頂ければと思います。時々持説なども語ったり。

スラヴォイ・ジジェク:私は世界で最もイカした哲学者なんかではない!

 

比較的最近の(とはいっても昨年末のものですが)記事を訳してみました。当ブログの邦訳第一弾ですが、最初なのでインタビュー形式の分かりやすいものから翻訳させて頂きました。インタビュー中では、ジジェクの学生嫌いが十二分に伝わってきますが、最近のニュースで少し話題になったのが、彼が韓国の慶煕大外国語大学というところの客員教授になったという報道。どんな授業をしているのでしょうか…。

 

私は世界で最もイカした哲学者なんかではない! スラヴォイ・ジジェク 2012年12月30日

  およそ25年前、哲学者スラヴォイ・ジジェクは行き詰ったスロヴェニアのアカデミアの中から躍進した。ラカン派精神分析、フランクフルト学派の観念論、そして1979年の大ヒットホラー映画『エイリアン』についての考察を巧みに融合させた著書『イデオロギーの崇高な対象』の発表によって一躍英語圏の世界で頭角を現すこととなったのだ。

こんにち、彼は何処にでもいる。その悪名高い無作法な「急進左翼」哲学者は、今や熱狂的なカルトのイコンとして、無気力なヨーロッパの左派の精神的導き手として、全く想像だにしない有名人となった。

ジジェクは50以上の著書を発表しており(近著は“The Year of Dreaming Dangerously”邦訳タイトル『2011——危うく夢みた一年』)、いくつかのドキュメンタリーにも出演している。機関紙である“The International Journal of Žižek Studies”は、彼の著作を専門に扱っている。ジジェクはこれまで「哲学のボラット」、「文化理論のエルヴィス・プレスリー」、そして「世界で最もイカした哲学者」と呼ばれてきた。彼はこれらの呼称を忌み嫌っているが。

サロンは、いまだにリュブリアナを故郷と語るジジェクに、スカイプでインタビューを行った。テーマは、「スラヴォイ・ジジェクのありそうになかった現在の名声」である。

あなたはここ数年で数々のインタビューを受けてきました。われわれはこのインタビューが幾分か抽象的な概念にまで及び、スラヴォイ・ジジェクという人物についてお話出来ることを願います。

どうぞお好きに。

つい先日、Foreign Policy はあなたを“2012年のグローバルな思想家100人”の一人に選びましたね。

ええ、ただ100人の中でも下位ですが。

そうですね。あなたは92位でした。あなた自身このリストに載るにふさわしいとお考えでしょうか?

いいえ!たとえ拷問されたとしても私はイエスとは言えません。私はノーと言うことが礼儀正しい行いだと知っていますから。

一位はあのミャンマーの女性ではなかったですか?私はいつも彼女の名前を忘れてしまいます。誰でしたっけ?

アウンサンスーチーのことでしょうか?

そうです!彼女に反対するところは何もありませんが、説明していただけないでしょうか。一体どういう意味で彼女は哲学者、もしくは知識人なのでしょう?

まず最初に、正確に言うとこちらのリストは哲学者ではなく思想家のリストです。

 

ええ、ただどういった意味で彼女は思想家なのでしょうか?彼女はただミャンマーに民主主義をもたらしただけです。結構。それは良いことですが、観念を観念としてそのまま受け入れることはできません。「民主主義だ!これで皆がオーガズムを体験できる。さあできるだけ沢山の人々に広めよう!」といったようにね。

思想は本当に困難な問題を抱えるときに生まれます。例えば、民主的プロセスの中で何が本当に決定されるか?といったような問題ですが。

つい最近“The International Journal of Žižek Studies に目を通しましたが…

私はそのサイトを開いたことがありません!一度もです!約束します!

あれについてはどうお考えなのでしょうか?

 

編集者のポール・テイラーとは良好な関係を保っていますよ。私たちは友人の仲です。皮肉なことに、彼は自身のアカデミックキャリアの手助けになると考えたのでしょうが、トラブルしかもたらしていませんね。ご覧のように、―もしくは私の出演する不愉快な映像を見ればわかるように―私は神経質な人間なんです。私自身がスクリーンに映し出されるのはとても耐えられないのです。また、人々が私について書いても、粗野な批判でないかぎり、友人が私に応答を勧めないかぎりは読みません。

恥ずかしさのような感覚を抱いてしまうんです。自分自身を見るのが怖いのです。

以前にもおっしゃっていましたね。それと、記者があなたのことを滑稽な、おどけたものとして描写したがることについても言及されていました。しかし、疑問なのは、あなたはどの程度おどけているつもりなのかということです。

 

何故私がそれを[滑稽なことや、おどけたことを]するか知っていますか?私は、人々が「ありのままの私(ナイーブな言い方ですが)」を見ることでひどく退屈してしまうのが怖いのです。

周知のように、私は私生活では非常に抑うつ的な人間です。いまいる場所を見てください!私はパリにいます。

 [ジジェクはノートパソコンを持ち上げ、周囲のものが見えるように動かしてみせる。寝具と一つの窓が見える、ほとんど何も置いていないホテルの一室。]

わかりますか?小さなホテルの一室にいるのです。必要があって一週間家を離れています。ここでは、食事のために一日に一度か二度外に出ますが、この一週間あなたと、スカイプで話した私の友人以外とは誰とも話していません。そして私にとってはそれがとても好ましいことなのです!

私がひどく恐れているのは、もし私が私らしく振舞った場合、人々は何も見るべきものがないことに気付くであろうということですね。ですから、それを覆い隠すためにいつも活動的でなくてはならないのです。

ついでにいえば、リアリティショーがとても詰まらないと主張するのはこの点においてです。彼ら[出演する人々]は彼ら自身ではないのです。彼らは彼ら自身の特定のイメージを演じており、それはひどく詰まらない、ばかげたものです。私にはなぜ人々がリアリティショーに惹きつけられるのか理解できません。禁止されるべきとさえ思います。FacebookTwitterも同様にです。そう思いませんか?

私が持っている自分の写真と言えば、パスポートのような公的文書に載っているものばかりです。

ただ待ってください!自分をひどく嫌っているというわけでは無いのです。私は自分の著書が好きです。そのために―理論のために―生きているのです。そして、恥知らずな、このような人道主義的態度が大嫌いです。「アフリカの子どもたち!彼らは飢餓に苦しんでいる!誰も理論など必要としていない!」といったような態度です。そんなことはありません!われわれは今日、今まで以上に役に立たない理論を必要としています。

 

あなたは、あなたが出演されている2005年のドキュメンタリー映画『Zizek!』をご覧になっていないとおっしゃっていました。私はつい先日拝見したのですが、衝撃的なシーンがありました。あなたが監督のアストラ・テイラーをキッチンに連れて行き、そこに靴下がしまわれているのを見せる場面です。

はい、彼女を驚かせるためにしたんですよ!ですが、そこではとても馬鹿馬鹿しいことが起きました。彼女に、靴下をキッチンにしまっていることを言ったのですが、彼女は信じませんでした。彼女はこう考えたのです。「ああ!これはかれのポストモダンな見世物の一つなのね。」と。私はこう言いたかった。「ファックユー!本当にそこにあるだけなんだよ!」と。

ある馬鹿は、映画の諸々の場面を取り上げて…覚えていますか?私が裸でベッドに横になって(もちろん腰から上だけですが)インタビューを受けているシーンです。

低俗なものでした。[監督のせいで]私は毎日イライラさせられ疲れていました。くたくただったのです。ただ、彼女はいくつか質問したがっていたので、「もう寝るつもりだけど、五分間だけなら撮っていいですよ。」と言いました。それが事の真相です。

いまや、あれを見て「彼が上半裸で撮影したのはどういうメッセージなんだろう?」と言う人がいますが、メッセージなどありません。私はクソ疲れていたということがメッセージです。

しかし、それはあなたの著書でよくなされていることではないですか?スクリーンに映る上半裸の男を取りあげそれに意味付けをする、といったように。

事実ですね!

靴下の話に戻りましょう。それを監督に見せることで、通常の生活において全く機能できていない混乱した哲学者という人物描写に繋がると確かに理解していたのでしょうか?

いいえいいえ。私のことを知っている人は、私が整然とした人間であることをわかっています。最新の流行に敏感で、すべてが計画的です。これが上手くやる方法です。量的にであって質的ではありませんが。

鍛錬もしています。どこででも仕事ができますよ。軍隊でそれを[上手くやる方法を]学んだのです。

私は薄汚く見えるかもしれません。それは事実ですね。私はズボンだったり上着だったり、自分のために何かを買うのが極端に嫌いなのです。私の持っているTシャツはすべて同僚たちからのプレゼントです。靴下もすべてビジネスクラスのシートに備えられていたものです。こういう点では、全く自分のことを顧みません。しかし、部屋は綺麗でないと駄目ですね。私はいわゆるコントロール・フリークでして。

このせいで、兵役に服していた際、私は絶望してしまいました。私は規律を順守できない、混乱した哲学者などではありません。ショックだったのは、ユーゴスラヴィアの軍隊が、表面上は秩序の下にあるように見えますが、実際には混沌とした、すべてが機能不全にある社会だったということです。あまりにも混沌とし過ぎていて、私は深く深く失望しました。

私の理想は修道院で暮らすことですね。

そのことについてお話ししましょう。以前にも、あなたは、「私は哲学者であって預言者ではない。」と語っていました。しかしながら、あなたのことを信奉する人たちは驚くばかりに敬虔です。多くがあなたを預言者だとして崇拝しています。何故でしょうか?

 

そうですね、これについては何とも明確には言えません。一方で、私はより古典的なマルクス主義に回帰しています。「そんなことが長続きするはずがない!狂っている!破滅の時がやってくる!などなど…」と。

他方で、私はカルチュラル・スタディーズのような戯言が本当に大嫌いです。もしあなたがポストコロニアリズムなどという言葉を口に出そうものなら「そんなもの知るか!」と言うでしょう。ポストコロニアリズムなんてものは、白人リベラルの罪[の意識]に付け込んで、西洋の一流大学でのキャリアを築こうとするインドの裕福な人間たちが考え付いたものです。

そうすると、あなたはポリティカル・コレクトネスや、ジェンダー・スタディーズのような、ポストモダンの果実からの逃避を試みる20代の人々に、安らぎの場所を提供しているということですか?

そうです、そうです!That’s good!

ただ、ここで私は少し誇大妄想気味になってしまいます。私自身をキリストの像に重ね合わせてしまうのです。「よろしい!私を殺せ!犠牲になる覚悟はできている!されども、大義は生き延びるであろう!」といったように。

 

また、矛盾してはいますが、私は大衆の存在を蔑んでいます。教えるのを完全にやめてしまったのはこのことが理由なんですが。私にとって最悪なのは、学生と交流を図ることですね。私にとっては、学生なき大学が好ましいのです。中でもアメリカの学生たちは嫌いです。彼らはまるで私に貸しがあるように思っています。私に近寄ってくるなり…そう、オフィスアワー!

何ともヨーロッパ的ですね。

ええ、この点で、私は完全にヨーロッパ派、中でもとりわけドイツの権威主義的伝統に賛成ですね。イギリスは最早堕落しています。あそこでは、学生たちは自分たちを引き止めて質問する権利があると思っているのです。私はこれがとても嫌なのです。

とはいえ、アメリカやカナダには敬服もしています。今やある方面では、ヨーロッパよりも優れています。フランスや、特にドイツですが、今では非常に知的水準が低いと言えます。興味を惹くべきものは何もありません。方や、アメリカやカナダではいかに知的に生き生きしているかに驚かされます。ひとつ例を挙げましょう。ヘーゲルの研究です。ヨーロッパの人々がヘーゲルを理解したければ、トロントやシカゴ、ピッツバーグへと学びに行きます。

ヘーゲルはあなたの名声についてどう思うでしょうか? 

 

彼は何とも思わないでしょう。彼は、―おそらく『精神現象学』の終わりの部分だったと思いますが―「もし哲学者として時代精神についてはっきり述べるとするならば、詰まる所「名声」―たとえ人々が本当にあなたのことを理解していないとしても―である。」とさえ書いています。ひとびとはある程度そのことを感じ取るのです。「人々はどうやって感じ取るのか?」という、美しい弁証法的な問題ですね。

 

あなたは忠実なラカニアンですね。もし[精神分析家、心理学者である]ジャック・ラカンが今日生きていたとしたら、あなたは気まずいと考えるでしょうか?

まさしく!彼は非常に日和見主義的です。そして彼は私の方向性が気に入らないでしょう。理論的には彼は反ヘーゲルですから。ただ私は、彼が実際のところ、気付かないうちにヘーゲリアンであるということを証明しようと試みています。

あなたがあまり好ましくないとおっしゃっていた大衆的なを書く際、どのような読者を想定しているのでしょうか?

それは禁句です!そのような考えはしないようにしているのです。気にしていません。もう一つ、自己分析も禁止しています。自分自身を精神分析するという考えにはうんざりします。この点において、私はある種保守的なカトリック的悲観主義者と言えるでしょう。自身の深淵を覗くと、大量のクソが見つかると考えるのです。もっとも知るべからざることだと言えます。

『Zizek!』では、私の個人的なことにかかわる手がかりはすべて食い違うように気を付けていました。.

何故わざわざそんなことを?面白半分ですか?

彼らが馬鹿だからですよ!私はジャーナリストや映画監督が大嫌いです。そこには大変不愉快な何かがあると思うのです。当然あなたはこうも尋ねることでしょう。もし本当に私が無関心ならば、どうしてわざわざ嘘をつくのか。そうです、そこには何か問題があるからであり…と。

知っていますか?私がアルゼンチンで結婚をした際、私は非常に恥ずかしい思いをしました。私が、結婚式の写真流出を画策したと考えられているのです。それは間違いです!

 

私もその写真を拝見しました。愛を、暴力的で不必要なものと見なすような人びと[ラディカルフェミニスト?] のために、あなたは見事結婚式をやってのけたように見えます。あなたの妻[アルゼンチンのモデルであるアナリア・フーニー]は長い丈の白色のドレスを着てブーケを手に持っています。なんと伝統的でしょう

 

そうですね、ただ何か気付きませんでしたか?写真を見れば、私が喜んでいないことが分かります。私の目は閉じてしまってさえいます。「これは現実ではない。本当は私はここにはいない。」という心理的逃避の現れなのです。

結婚式では、いくつかジョークも仕込みました。コーディネーターに式の際に流れる曲を選ぶようにいわれたので、私が妻に歩み寄ると、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番が流れるようにしました。あれはスターリンの象徴としてよく知られています。そして私達が抱擁すると、今度はシューベルトの『死と処女』が流れるのです。私は子供じみた手法で式を楽しみましたが、結婚は全くの悪夢でした。

すると、あなたは奥さんのためにこのような大々的な結婚式を挙げたのですか?

ええ、彼女はそれを夢見ていましたから。

こうした観点から見て、私が嫌いな本というのをご存知でしょうか?ローラ・キプニスの『Against Love』です。「愛なきセックスは存在しない!」という標語がブルジョワ的秩序の最後の砦であるというのが彼女の考えです。再構築だとか、アイデンティティだとか、それはジュディス・バトラーの専門分野でもありますね。

私はそれとは正反対のことを主張しています。今日、情熱的な献身はほとんど病的であると考えられています。私は、「この男性/女性こそ私の全てを捧げたい人物である。」と言うことに、破壊的・転覆的な何かがあると思うのです。

 

私がいわゆる「一夜限りの関係」を成し遂げられない理由はここにあります。これには少なくとも、永遠性という一つの視点が必要となるのです。

あなたはジュディス・バトラーを何かアンチテーゼのような存在として掲げているように見えます。既に何度か言及もしていますが、彼女はあなたの仮想敵なのですね!

はい、ですが私達はとても素晴らしい関係にありますよ!ジュディスは私に、「スラヴォイ、あなたは私のことを劣った女性だと思っているのでしょう。」と言いました。私は「いいえ、あなたと同様に私がヘーゲルを好きならば、あなたが馬鹿であるはずないじゃないですか!」と返しました。

あなたが参照する歴史的な人物とは誰ですか?

ロベスピエール、あとはレーニンを少々。

本当ですか?トロツキーではなく?

1918年から1919年にかけて、トロツキースターリンよりも苛烈でした。彼のこういう面は好きです。ただし、1920年代半ばに彼がそれを台無しにしてしまったことは許せません。彼は非常に馬鹿で、傲慢でした。彼が好んでやっていたことをご存知ですか?彼は、フローベールスタンダールのようなフランスのクラシックをかけながら党大会に登場するのです。他の人々に、「くそったれ!俺は文化的なんだぞ!」ということを示すためにです。

あなたは行動ではなく思考せよということを書かれていますが、結局の所あなたはレーニンに―実践の人として有名な―共鳴していますね。

 ええ、しかし待ってください!レーニンは正しかったのです。1914年、全てが悪い方向に向かってしまった際、彼は何をしたでしょうか?スイスに行き、ヘーゲルを読み始めたのです。